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文献に見る守口漬・守口大根 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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このページの表内記載事項は各種文献から引用して制作しました。説明文にとどまるものや、現在の仮名遣いになっているもの等混在していますが、文献の記載を忠実に引用していますのでご容赦下さい。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.大阪府守口市編 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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守口大根は、江戸時代以前から河内国茨田(まつだ)郡守口(現在の大阪府守口市)付近で栽培されていた 葱(ねぎ)のように細長く、成長すると1m以上にもなる砂地性の特殊な長大根がその前身とされている。 この長大根は大坂天満の天満宮鳥居前(最近までの天神筋町=俗称九丁目筋の古名が宮の前)でも栽培され ていたので、「宮ノ前大根」又は「宮前大根」とも呼ばれていた。 この「宮ノ前大根」は、今はその存在が確認されないが、「守口漬」に利用されてきたので「守口大根」と呼ば れてしまったものと思われる。 つまり、河内国茨田郡守口で作られていた長大根(宮ノ前大根)や茄子・瓜・刀豆(ナタマメ)等の蔬菜類の | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
糟漬-> 守口漬->守口漬に使われる大根->守口大根 |
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といった順序で、「守口漬」という名前の方が「守口大根」という名前より先に存在したと思われる。 「守口漬」の記録は、天正13年(1585年)に豊臣秀吉が京と大坂との還往の途次に河内ノ国守口ノ地に休 息した折、本陣吉田八郎兵衛(庄屋源兵衛?)が漬物を献上したことから始まる。秀吉は、その格別な風味を 賞賛して「守口漬」と命名したと言われている。 下記の年表からわかるように、「守口大根」の初見は「守口漬」のそれより1年遅い。 明治に入って愛知・岐阜の生産の増加とともに衰退し、今では関西の「奈良漬」の一素材とされてしまい、守 口漬という名前は残っていない。なお、大坂の出雲堂本舗が明治初年に発刊した「漬物早指南」には、”守口大根粕漬”として「是も大根を湯 にくぐらせ一日ひにかわかし粕に塩を混ぜて漬けかるく押をおく」 とあり、現在の名古屋の「守口漬」の製法と大きな違いがある。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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2.岐阜市編 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
長良川は、かつて岐阜市の長良橋下流付近から分流し、これらの分流に囲まれていた早田・正木・則武・島地区は、長良川が作った扇状地の末端に位置する。 この地区には、肥沃な砂壌土が厚く堆積し、根菜類の栽培に適した所であり、江戸時代にはこの地方の大産地として知られていた。 この地方で栽培された細根大根(ナガラダイコン、ホソリ大根、イトヅクリとも呼ばれた)は、江戸時代には干大根(美濃干大根)として、12月上旬に収穫されると稲架(はざ)に掛けてよく乾燥させ、これを藁(わら)で擦って飴色に仕上げられた。これは主に正月の汁の具や酢の物として食されたと言われている。 明治初年の「増補岐阜志略」には「干大根」の記載はあるが「粕漬」の記録は見られないが、明治9年の「日本物産史」には「糟漬トシテ最佳ナリ」との記載がある。 このことから、明治初期頃に美濃干大根の粕漬が作られ始めたと思われる。 岐阜で初めて「守口漬」の名前が記録されているのは、明治23年の「岐阜美や計」で、美濃干大根が守口漬に最適であったため、名古屋や岐阜での守口漬の発展とともに品種改良され明治22~23年頃には、現在の大根の原形が出来たと言われている。 また、ほとんどが「守口漬」に用いられるようになったので、美濃干大根も「守口大根」と呼ばれるようになったと思われる。 |
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3.愛知県(丹羽郡扶桑町)編 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
現在では、最大の産地となった扶桑町での守口大根の栽培史は浅い。そのため、黎明期の記録は、愛知県教育委員会が昭和54年度郷土学習教材として作製した”郷土を知るシリーズ”愛知の伝統産業「守口大根と守口漬」という16ミリ映画の利用の手引きに詳細に記録されている。この手引きは、現在(1997年8月末)私が入手した、守口大根・守口漬に関する文献・書物の中で最も詳しく、史実に沿った記録がなされていると思われる。守口大根・守口漬の歴史をはじめ、扶桑町山那地区の風土や当時の4Hクラブメンバーの営農青年達の守口大根導入・栽培に賭けた並々ならぬ努力により、岐阜市に代わる最大産地としての地位を獲得するまでの記録は、30数ページの冊子に詳細に記載してある。この冊子は愛知県での「守口大根・守口漬」を知る上で欠かすことの出来ない一冊である。そのため、1997年5月、愛知県教育委員会に引用(一部抜粋)可否の問い合わせをし、著作権を侵害しない範囲での引用許可を得、この冊子の一部を紹介する。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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∴栽培の沿革 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1.犬山扇状地と土地利用 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木曽川は、犬山市北部を扇頂とする半径約12km、面積約100k㎡の犬山扇状地を造った。この扇状地は、一連の中部傾動運動(濃尾平野西部が沈降し、猿投山を中心とした東部山地が隆起する地盤運動)で隆起し開析された扇状地である。木曽川はこの扇状地に3つの派流(細長い旧河道)を刻み、扇状地上には、細かな砂壌土を厚く堆積した。このため、扶桑町や江南市などの丹羽郡の市町は、派流によって出来たわずかな水田を除くと、ほとんどが桑塩か普通畑であった。この地域は、古くから分派流の洪水に悩まされてきたが、慶長年間に完成した「御囲堤」で洪水から逃れることが出来るようになり、開発も進んだ。 江戸時代初期には広く畑地や松林(やま)は残っていて、米作はほとんど行われなかった。そのため、この地域では早くから米に代わる商品作物として、藍・綿・え・麻・茶などが栽培されていた。江戸時代中期の濃州洵行記(寛政4年:樋口好古)には「畑地バカリニシテ一面砂地ナルタメ、茶、桑ヲ栽培シ、農事ノ余カニ養蚕ヲナシ、繭ヲ製シ処々ヘ売出セリ」とあるように江戸時代後期にかけては、徐々に桑畑も増え、明治中期以後になると松林は桑園へ転換されることが多くなった。また、栽培作物も蔬菜類となり、昭和初期には甘藷や大根、里芋、牛蒡、人参などの根菜類が多くなった。その他、尾北地方を中心に明治後半から蔬菜類の採種組合が出来始め、この地方でも、宮重大根などの採種をする農家もあった。 |
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2.守口大根の導入と生産組合の結成 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戦前は、養蚕業を中心に生活してきた扶桑町山那地区も戦時統制下における食糧自給政策強化などで桑園は著しく減少した。また戦後の養蚕の不振や食糧確保から、農家はこれまで副業としてきた蔬菜栽培に依存する傾向が強くなった、各農家は、早出し牛蒡や宮重大根などを収穫し、朝早く大八車で遠く離れた枇杷島市場に出荷して現金収入を得ていた。 このような戦後の混乱期に農家の青年たちを中心として新しい農業経営を目指す山那4Hクラブの人達が地元出身の枇杷島市場の仲買商、大矢多助氏や、その紹介による漬物業者のすすめもあり、守口大根の栽培を試みることになった。しかし、当時岐阜の守口大根の種子は、門外不出であったため、昭和25年頃から有志7名で種探しに奔走した。その結果、昭和26年業者などの援助でやっと守口大根に近い種子を少量手に入れ、これを早出し牛蒡の後作として4aの土地で試作を始めた。 最初は、商品として価値のないものだったが、昭和27年7月、ある程度の目安がついたことから有志19名で「扶桑町守口大根生産組合」を結成し、愛知県西春日井郡清須町の愛知県園芸試験場や岐阜県農業試験場などの指導で品種改良及び種子の量的確保に着手した。翌年12月、不揃いだが0.24haの土地で6.4トンを収穫し、浅田康行氏が全てを購入した。このことが、今日の産地としての地位を得る大きな要因となった。 |
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3.石黒嘉門氏と品種改良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
この年、浅井忠雄氏所有の草生地2aに種子確保のための共同播種圃場を設定し、愛知県から派遣された石黒嘉門技師の指導で、岐阜県可児郡可児町(現在の可児市)水野幸一氏の水田5aを借用し、優良母本の選定による品種改良と自家播種の拡大に取りかかった。また、昭和31年、愛知県地方振興事業で耕種改善試作圃場の指定を受け、岐阜県可児町に原種圃場5a、山那地区に採種圃場20aが設定された。その後品種が崩れてきたため、昭和44年、愛知県の補助で共同育苗施設を作り、再び採種圃場を設置して優良母本で原種回復を目的とした母本選択を行った。 優良母本選択は、12月初旬に収穫された2,000本の中から、愛知県農業総合試験場で技師により10本が選択され、これを試験場内のビニールハウスで採種した。翌年これを組合の世話人で播き、収穫された母本2,000本の中から前回と同じ方法で採種した。この結果、優良品になりすぎ、病害虫に弱いといった欠点が現れたので、この方法での採種は昭和47年に中止され、以後2,000本の中から3割を残して捨て、組合の世話人が植えて、5月下旬播種し、一戸当たり2合づつ分配して個人の種子を採種する方法となった。 |
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4.生産の拡大 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和29年には24トンを生産。翌年、愛知県農務課二村技師の指導で、名城会(名古屋市内の漬物業者団体)との契約が成立したことから、生産量は一挙に前年の3倍に当たる74トンへと増大した。また、販路の拡大にも努力がなされ、前年に愛知県大阪斡旋所に見本を送ったことから、注文が取れ、昭和32年には大阪へ23トンが出荷された。 このように生産量が伸びるにつれ、都心部にある漬物業者は地価の高騰で工場や倉庫の増設が困難になったこともあり、委託管理や二次加工までを地元農家に要望することが多くなった。また、業者自体も地元に倉庫を設け、運送費・労働費の節約を図ることもあった。昭和32年には、組合単独で地区内に収容能力約60トンの加工場を建設。 昭和34年9月の伊勢湾台風で加工場が全壊。昭和35年、加工場再建とともに同規模の加工場を新設し、昭和37年までに、この地区で生産される守口大根のほとんどが地元で加工可能となった。 また安定した産地となったので、昭和33年、愛知県の指導で岐阜市の産地との間に「守口大根生産連絡協議会」を発足させ、漬物業者との価格決定を同一歩調で行うこととなった。昭和38年には、栽培面積18.2ha、生産量は681トンとなり、8年間で面積で5.9倍、生産量で9.2倍にもなった。 |
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5.畑地灌漑整備事業と基盤整備 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
木曽川流域は、河川改修やダム建設の結果、著しい河床低下が起こり、この地区でも地下水位が5m近く低下した。昭和31年、愛知用水事業の着工に伴い、下流域の河床低下と水不足を補う目的で、昭和32年、犬山取水ダム工事が着工され、木津、宮田、羽島の三用水の合口とする濃尾用水事業が開始された。しかし、昭和37年7月下旬から9月下旬まで続いた干害では、9月上旬に播種する守口大根は大きな被害を受け、500mも離れた木曽川から水を運ばなければならなかった。この地区は、砂壌土が厚く堆積しているため、それまでも、雨が少ないと干害を受け、大雨が降ると土壌流出が激しかったので、同年秋、交換分合により分散した耕地を一カ所に集め、機械力利用を重点とする近代的営農方法の導入をはかる目的で、扶桑町土地改良区が設定された。これに伴い昭和40年1月、山名地区の第一期工事(49.0ha)が起工された。 上記の大干害これを契機に国・愛知県に対して畑地灌漑事業の促進を働きかけ、昭和41年6月、農林省は犬山取水口から旧宮田用水取入口までの暗渠工事にあわせて山名地区内に宮田用水を利用する揚水機2機を建設した。また、これに関連する県営事業としての幹線工事及び各地の団体(土地改良区)が主体の配管工事が行われた。 このように昭和41年の濃尾用水事業の完成に合わせて、この地区も畑地灌漑、基盤整備など守口大根栽培を中心とする農業経営への基盤づくりが着々と進められた。 |
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6.農業構造改善事業とトレンチャーの導入 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
守口大根がまっすぐに細長く伸びるためには、播種前に圃場を1m近く掘り返す「天地返し(深耕作業)」が必要となる。小型のシャベル(エンピ)で掘り起こしていたが、真夏の「天地返し」は、たいへんな重労働で、一日2~3a耕すのが限界で、栽培農家の拡大には大きなブレーキであった。 昭和42年夏、この地区の共進会で耕作機械の実演会が開催された折り、土木用のトレンチャーが紹介された。これを、「天地返し」に使えるようにメーカーが改造し、扶桑町守口大根生産組合が昭和44年農業構造改善事業の一環として4台導入した。組合では、組合員を4組に分け、作業日程表を作らせ効率よく運用させた。昭和46年には、農家のアイデアで改良を加えた4台のトレンチャーが追加導入された。昭和48年、50年にも、愛知県から7割の助成を受け、それぞれ4台づつが導入された。また、組合としても、トレンチャーの個人購入を奨励し、購入者には1割を助成し、積極的に深耕作業の省力化に努めた。トレンチャーの導入は、これまで手掘りで10a当たり160時間を要した「天地返し」を僅か10時間余りに短縮することに成功した。これまでの重労働から解放された著しい省力化に加え、品質の向上に成功し、兼業農家も守口大根の栽培が容易になり、栽培農家がさらに増加することとなった。 トレンチャーの導入以外にも、昭和44年の加工場増設(収容能力300トン)、シーダーマシン(播種機)、レインガン(散水機)、加工場用フォークリフトの導入が行われ更に省力化が進んだ。また、昭和46年には、土壌改良と地力維持を目的に、畜産農家(養豚・酪農家)と提携して扶桑町厩肥利用促進協議会が結成された。 |
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7.最大産地の成立 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
旧来の産地岐阜市では、岐阜国体前後に長良川以北の都市化が進行し、手掘りでの「天地返し」や収穫の重労働が敬遠され、作付け面積は昭和37年の35.4haをピークに減少傾向を示し始めた。
昭和38年から48年にかけては、生産過剰となり生産調整が行われた。昭和42年には栽培面積16.3ha、総生産量578トンとなり、扶桑町が岐阜を初めて追い抜いた。昭和43年は、単位収量(10a当たり)約5トンと過去最高を記録。また、この年4月には、愛知県漬物協会奈良漬部会への加入を機に「扶桑町守口大根生産組合」へと改称。しかし、昭和46年には、総生産量1,055トンの空前の大豊作となり、昭和47年・48年の2年間は三割の作付制限が実施された。この2回にわたる生産調整は、岐阜の農家にとって大きな打撃となり、栽培面積は著しく減少した。 一方、扶桑町では、基盤整備やトレンチャーの導入、品種改良などの結果、岐阜と同水準の土地生産性に達し、省力化の進展とともに栽培農家も増え、岐阜での減少分を補うことが可能となった。このため、昭和47年以後の生産調整は、扶桑町がその7割を生産することになり、岐阜に代わって最大の産地となった。 扶桑町での最大産地の形成に至るもう一つの背景は、前述のように加工場建設に積極的であったことがあげられる。守口漬は守口大根収穫から製品完成まで2年以上の期間を要することから、名古屋市内の漬物業者は貯蔵倉庫の確保が重要な課題である。また、運送費や漬け替えに要する労働力などを考えると、産地での加工が最も効率的であった。一方、産地(組合側)としても、構造改善や、県の助成で加工場建設が可能で、業者からの委託による約2回の付け替えの労賃、倉庫使用料、維持費などが組合の収入になるといったメリットもあった。ここに着目し、扶桑町の組合では、当初から加工場建設に積極的で、昭和53年には、この地区で生産される8割以上に当たる800トンが加工できるようになった。愛知県扶桑町という消費地(名古屋)に近い地の利に加えて、加工場の建設は、漬物業者にとって経済的であり、信頼を高めることとなった。 |
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